西普天間住宅地区の文化財

更新日:2024年06月12日

 平成27年度から始まった西普天間住宅地区の試掘確認調査及び緊急発掘調査でさまざまな文化財が発見されました。当時の人々の暮らしを知ることができる貴重な文化財です。

 現在も調査中となっており、令和6年6月時点での状況をご紹介します。

西普天間地区重要な文化財の指定・整備候補位置図

ミーガー

ミーガー

喜友名のナナヌカーの一つです。石積で造られた湧泉で、バシガーに似ており、樋口を設けています。湧泉の下流には棚田が広がり、近くには「ミーガーマーチ」と呼ばれる大きな平松がありました。

バシガー

バシガー

喜友名のナナヌカーの一つです。石積で造られた湧泉で、大雨でも湧水は濁らなかったといいます。落差のある背後を石積の石垣で三段に分けて積み上げています。バシガー上手には、「き きとも奈原」の刻名が彫られた印部石がありました。(現在喜友名地内で保管)。喜友名グスクに関係するウナダルヌメー(位の高い女性)が水浴びをしたと伝えられています。

ヤマガー

ヤマガー

集落北から新城方面に向けてある湧水群の一つで、喜友名のナナヌカーの一つです。近くにはヤマガーマーチという大きな平松がありました。また「フニクンジャー石」と呼ばれる岩があり、「ジンナト」という地名などから、この辺りは大昔は港だったとの言い伝えもあります。

「あ 山川原」銘の印部土手

印部土手あ山川原

 『「あ 山川原」銘の印部土手は首里王府が乾隆検地(1737~1750年)の際に田畑などの測量を行うために設置した図根点(現在の基準点)の一つです。円形の土手に30~40センチメートル大の石灰岩礫を土留めとして配置し、中央にはいろは文字「あ」と小字名「山川原」を刻字した砂岩(ニービ)製の石を配置しています。およそ200平方メートルに一基の割合で設置されたと考えられ、ひとつの間切に200~300基あったとされています。


 今回西普天間住宅地区で発見されたこの印部土手は、伊佐区から北谷町に広がる水田地帯が見渡せた小高い丘陵上に設置されおり、印部土手の典型的な例です。また、直下には琉球王国時代の宿道(現在の国道)である「中頭方西街道(歴史の道)」が隣接し、そこから印部土手へ通じる道も見つかりました。


 印部土手を測量基準点として「針図」が作製され、それをベースにして国指定重要文化財(歴史資料)の「琉球国之図」、「間切図」などの地図が作成されました。
(*現在、市立博物館で野外展示)

ノグニグヮーヌメーヌカー

ノグニグヮーヌメーヌカー

イメージ図

自然の湧泉で、伊佐浜などの近隣住民や畑仕事をした人たちが利用したとのことです。「ウマアミシガー」とも呼ばれていました。屋号野国の屋敷の前(北側)の道の下にありました。

【現況】現地の付近には、聞き取り調査で確認した状況にやや似たような地形が見られ、湧泉の流出も確認できます。

シンバルガー

シンバルガー

イメージ図

「アラグスクフルガ―」とも呼ばれ、元々の新城古村落(新城集落が現在の普天間飛行場内に移動する以前の村)のムラガ―だったと言われています。

棚田はなく、周りには畑があったそうです。カーには石積はなく、水の流れで岩が削れられたようになっていました。カーは道より低い位置にあり、岩の間から自然に水が流れ出ていたそうです。

戦前は「ナカマグヮーヌカー」とも言われており、カーの北側、方西海道を挟んだ向かいに屋号ナカマグヮーがありました。

【現況】現時点では場所が不明で、埋没している可能性が高いです。

ユタカノイズミ

ユタカノイズミ

戦後伊佐の住民が造ったものです。寄棟形にセメント塗された壁面には「伊佐浜水源地 豊之泉 着工1959年2月12日 竣工1959年3月15日と記されていて、セメント製の香炉が据えてあります。

水はシンバルガーから流れてくる水を利用して、戦後すぐに造られました。導水管を敷設し、伊佐浜区70世帯、北谷町北前区200世帯の住民が生活用水として活用していました。

【現況】下流側へコンクリートの暗渠水路が敷設されており、米軍が設置したと思われる貯水タンクに繋がっています。

新城上殿(ウィーヌトゥン)遺跡

上之殿

新城集落発祥の地として伝承があります。佐喜真興英氏は「シマの話」の中で、「新城の島は何百年か前、北西方十数町余の所から移転したものと信ぜられていて、現に其故地には御岳、屋敷跡などが残っている」と記述しています。

【現況】かつての上之殿や下之殿などの拝所は、米軍のハウジング建設により破壊されてしまいました。現在では、石切場や石積などが残ります。平成28年度に本調査を実施し、グスク時代の柱穴などが検出されました(屋敷跡)。

安仁屋・新城イシジャー流域古墓群

イシジャー

石灰岩台地に形成された、普段は水が流れない枯れ谷で、渓谷状の地形を呈しています。一部流水もみられ、他の琉球石灰岩地域では見られない珍しい地形といえます。どのようにこのような地形が形成されたのか、成因の研究を含め、学術上も重要な地形と考えられます。県指定天然記念物のクロイワトカゲモドキが生息しています。

渓谷の両脇には、背後の石灰岩を利用して概ね約120基前後の多種多様な型式の古墓が分布しています。このうち、返還された西普天間住宅地区では、平成26年度の表面踏査や平成29年度の調査で79基の古墓を確認しました。

喜友名フトゥキアブ洞穴遺跡

フトゥキアブ

喜友名集落の拝所の一つです。自然洞穴を利用する墓でもあり、かつて洞穴内には風化の著しい人骨が蔵骨器に収納されずに散乱していました。

標高約60mの地点に開口。全長約50mで、平面形はひょうたん形をしており、主洞の両端から支洞が発達しています。最大洞幅は16m、天上は高いところで約5mのホールとなっています。

【拝み】内部には5~6個の香炉が安置されており、戦前までは喜友名グスクに次ぐ喜友名の拝所で、年中の折り目に拝んだとされています。旧暦の9月9日にはフトゥキアブを拝んでから普天間権現に詣でたといいます。戦時中は喜友名集落の非難壕の一つとしても利用されました。

喜友名グスク

喜友名グスク

喜友名集落の北側にあり、県道30号線から西普天間住宅地区にかけての標高50mの石灰岩台地に形成されていたグスクです。堅固な野面積みの石垣で画され、門は正門と裏門があり、擁壁は約3mの高さがあったといいます。現在のところ、喜友名グスクについての古い記録は見当たらず、誰の居城であったかも不明です。

【拝所】聖地としての喜友名グスクは、「琉球国由来記」に「城内西ノヤラズ嶽・喜友名之殿・喜友名火神」とあります。戦前は、グスクヌガントゥーグヮー(祠)・クラ・火の神など5~6カ所の拝所があったと伝えられています。また、グスクの北崖には神清明の時に拝する神墓もあったといいます。

【現況】大正3年の群道建設と昭和30年の米軍による普天間ハウジング建設によって地上部の石畳は全て破壊されましたが、グスク北側には郭が確認できます。

この記事に関するお問い合わせ先

文化課 文化財整備係


〒901-2203
沖縄県宜野湾市野嵩1-1-2
電話番号:098-893-4439

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