今日の文化課 2026年3月

更新日:2026年03月17日

3月17日 【年度末、今が見ごろと謎多きの野嵩紹介~!】

今年度も残すところ、あと半月足らずとなってきました😅

みなさま慌ただしい日々をお過ごしでしょうか🫡

最後まで気を抜かず、体調にも気を付けて乗り切りましょう~💪

我々も今週は今年度最後の文化財パトロールを行い、とくに大きなトラブルもなく年度を跨げそうなのでホっとしているところです😁

そんな市内の文化財から、本日は今が見ごろな野嵩の文化財を紹介します♪

その名も「野嵩紹介~!」 ん~、多くは語らぬ🤣

〖野嵩スディバナビラ石畳道〗

宜野湾の野嵩から中城へとつながる古道の一部です。高低差34m、長さ120mという急な坂道に造られた石畳道なんです。現在は県道を挟んで東側を歩くことができますが、西側の整備も近々始まる予定ですので、その進捗状況もお伝えしていきますね🫡

護佐丸・阿摩和利の乱の舞台の一部にもなったことで知られています🏹

今月に清掃入ったばかりなので、今がとても見ごろになっていますよ♪

〖野嵩クシヌカー〗市指定史跡

野嵩集落東側の窪地にある湧き水です。古来より人々の生活用水としてはもちろん、産水(うぶみじ)、若水(わかみじ)などとしても使われてきました。

石積が特徴的で、野面積み、布積み、あいかた積みという三つの積み技法を一つの湧き水で見ることができるんですよ😃

こちらもちょうど清掃が終わったばかりなので、綺麗な石積みを見学することができます♪

さて、「野嵩」!

宜野湾間切が成立する以前は、普天間ムラとともに中城間切の一部でした。

なぜこの二ムラが宜野湾間切に編入されたのかという理由もなかなか謎ですが、

琉球王国後期には、王世子の妃のことを「野嵩按司加那志(のだけあじがなし)」と呼んでいました。

なぜ宜野湾間切の一ムラである「野嵩」が、そのような高貴な肩書として称されるようになったのか。これもはっきりとしたことは分かりません。(知っておられる方がいらっしゃったら、ぜひご教授ください😅。)

が、何かしら誇らしい気分になるのは、私だけではないですよね😁

ジノワンダフルー👍

3月12日 【本部御殿墓で草刈りをしながら琉球ロマンに触れる】

昨日は、本部御殿墓の草刈り作業に行ってまいりました🫡

というのも、今月行われる文化財見学会の見学対象にもなっているため、シルバーさんに依頼するほど草は伸びてはいないけど綺麗にしておきたいなということで😄

すでに日焼けするような日差しの中、汗だくになりながら刈りまくってきました😁

そこで、本日は本部御殿について少しご紹介しましょう♪

本部御殿墓が市の指定文化財に指定されたのは、意外と思われるかもしれませんが最近のことで、令和3年の2月25日であります。

それ以前の本部御殿墓を御存じの方は、あの森みたいに鬱蒼としていた墓がこの墓なの!?と思われるくらい激変しています🫡

ご親族の方々の熱意が、琉球・沖縄史を学ぶ上でもとても貴重となるお墓を蘇らせたと言っても過言ではないのかもしれません😄

(整備以前の本部御殿墓↑)

琉球史に多少興味をお持ちの方であれば、「御殿墓」と聞けば琉球国時代に相当なクラスの位階を持ち合わせた方の墓なんだろうなということは分かると思います。

その通りで、こちらの「本部御殿墓」は、第二尚氏王統第十代国王・尚質王の第六男、尚弘信・本部王子朝平を始祖とする一族のお墓になるんです😁

分かりやすく言えば、国王のお子さま、王子・プリンスの一族ということですよね🤴

「○○御殿(うどぅん)」と名乗れるのは、一つの間切(現在の市町村相当)を領地とする王子や按司と呼ばれる上級士族のみで、その間切の当主のことを○○御殿と呼び、当主の住む屋敷のことも○○御殿と呼ばれていました。

しかし、王子といえど、第二尚氏王統だけでも400年ほどの歴史があるわけで、全ての王子一族を厚遇しているともちろん破綻してしまいますよね😅

なので、一族の次男三男を筆頭に、功績や後継ぎのない家系はどんどんと格下げされるシステムとなっていました。

そんな中において、数百年もの間「御殿クラス」をキープできた一族は数えるくらいしかありません。

その一つがこちらの「本部御殿」なのです。

空手を嗜んでいる方であれば、「本部ザールー」こと、「武人・本部朝基」の名前を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

そうなんです、本部朝基はこちらの本部御殿直系の三男。その長兄は「本部朝勇」というこちらも空手・武術・文学に長けた琉球偉人なのです!

その一族、本部御殿のお墓がなぜ宜野湾にあるのかは未だはっきりと分かっていません。ほとんどの御殿クラスのお墓が首里近辺にあるのにも関わらずです。

しかし、そのミステリアスな部分さえ琉球ロマンに発展するじゃないですか😁

ちなみに「宜野湾御殿墓」は首里の末吉公園内にありますよ!

二つのお墓には似た造りの特徴も見られます。

じゃー宜野湾御殿って一体誰? その話はまたいつか🫡

機会ありましたら見学に訪れてみてくださいね♪

3月10日 【じのーん文化財特集掲載!市報3月号発行されました!】

本日、それこそ3月10日で「察度の日(正式ではない😅)」に発行となりました、市報3月号には「宜野湾市文化財特集」が掲載されていますよ~🥳

(市民で盛り上げて、正式に「察度の日」にしていけるといいな~😆)

特集タイトルを「宜野湾市は文化財の宝庫!」と題しまして、現在指定・登録されている宜野湾市の文化財はもちろんのこと、米軍跡地である西普天間住宅地区で発掘され、もうすぐ見ることができるようになる「還ってきた文化財」。

そして未だ普天間基地内に多く残り、これから「還ってくる文化財」を写真とともに紹介しています🫡

(ごーやん先生も久々の登場😀 出場少なく、めーごーさーされそうやっさー😂)

そして博物館のコラムページでは、先日お伝えした「ぎのわん字展」についての裏話などなども😄

さらに!今月号には、宜野湾市で春季キャンプを張る「横浜DeNAベイスターズ」と市民との触れ合う様子も特集されていますよ~🧢

これはもう!永久保存版ですね😆

市民の皆さんへは、近いうちにご自宅へ配達されると思います♪

市民でないけど欲しい!とおっしゃってくれる方々!

宜野湾市役所や市民会館、博物館、図書館などでもゲットできますので、ぜひ手にとってみてくださいね😄

デジタル版も発行していますよ♪

宜野湾市の文化財ページもお見逃しなく~😁

3月9日 【ぎのわんの字展~じのーんどぅむら~ 開催中!】

みなさん、もう行かれましたか~😄!?

宜野湾市立博物館では現在、「ぎのわんの字展~じのーんどぅむら~」が開催されていますよ😁

「どぅーむら」って一体なに🤔?

ウチナーグチで「なんちゃって」を表す、「どぅー」あらんどぅー🤣

「どぅむら」とはいわゆる「同村」でありまして、

宜野湾間切の中の「宜野湾ムラ」であることから、間切名と同じムラ名で「どぅむら」というわけなんです😃

どぅむらは間切の中心地である場合が多いんですね♪

そう、戦前までは字宜野湾が宜野湾の中心地だったのです🫡

(ただ、宜野湾間切設立前に浦添間切の中の宜野湾ムラとして存在していたので、逆に宜野湾ムラが栄えていたから宜野湾間切と名付けられたのか?という疑問もあります)

今でいう役所「番所」も宜野湾ムラにありましたし、県内でも名高い馬場「宜野湾馬場」もありました。

そして浦添から普天満宮までをつなぐ「宜野湾並松」街道の中間地でもあったため、交通の要所としても機能していたといいます。

しかし先の大戦によって集落の大部分が米軍基地として接収され、その後中心地は普天間や野嵩へと移っていくこととなります。また、住民の拠り所であった集落の拝所や湧水などにもなかなか訪れることができていません。

そのような中でも、ムラの伝承や伝統行事を引き継ぎ、絶やすことなく後世へと伝え続けようと尽力されている姿が企画展を通して伝わってきますよ😄

3月29日まで開催されていますので、ぜひ足を運んでみてくださいね♪

(火曜日は休館日です)

3月6日 【新しい文化財説明板設置完了!見学への安心感にも♪】

文化課では、市内各地に所在する文化財について、より詳しく知ってもらえるよう「文化財案内板・説明板」の設置を地道ながらに進めております😄

たとえば、大謝名の公民館敷地内には大謝名に点在する文化財の案内マップを🗺️

さらに、実際に大謝名メーヌカーに足を運ぶと、大謝名メーヌカーに関するより詳しい説明板が設置されています🫡

そして今回!

かねてよりの念願であった、小禄墓についての標識&説明板を小禄墓現地に設置することができました~😆(これまでもあるにはあったのですが、サイズが小さすぎて)

正直、小禄墓までの人気の少ない静かな川沿い遊歩道をしばらく歩いて行くのは、初見で訪れる際には少々不安もあるかもしれないなとも思っていました😅

比屋良川公園内の遊歩道階段を下りて

道なりに100mほど歩き

このあたりまで来て戻ってしまったという方も、もしかしたら少なくないかもしれません😅 どこまで行くんだろう??とか。

しかし今回、この橋を渡ったところに標識を建て🪧

残り30m!の安心感!

実際30mほど歩いたところには、念願の説明板を建てることができました~🎉

実際の小禄墓は、案内板の反対側頭上に見ることができます♪

説明板には、小禄墓の特徴や香炉に関する説明文、その存在の貴重さなどを記しています🫡

説明板があるのとないのとでは、訪れる方にとっての安心感の違いにもつながるんだろうな~と思います♪ 説明文を読むことで、その文化財の存在に親近感も覚える。

ぜひ、現地に訪れて案内板の説明も読みつつ見学をされてみてくださいね😄

ただ、以前よりお伝えしているように、墓上のガジュマルが落木してくる危険性が残っておりますので、頭上には十分気を付けてご見学ください。

よろしくお願いします🫡

3月4日 【喜友名グスクの存在を立証し続ける香炉群!】

本日は、今月中頃に予定されている文化財見学会の下見に行ってきました🫡

ほぼほぼ宜野湾市内を一週する見学ルートになりそうです🚍

が、見学する箇所は実は数か所😅 市内端と端の文化財を巡るという感じです😁

そんな文化財の中から今日は、「喜友名グスク香炉群」を皆さんにも紹介しましょう♪

宜野湾市喜友名には、かつて「喜友名グスク」というグスクがあったことは何度かお伝えしていると思います。

聞き取り調査によるイメージ図がこのような感じとなります。図内の数字は拝所(香炉)があったであろう場所と考えられるようです。

しかし、近代の群道や県道の道路整備、拡幅工事、米軍のハウジング建設などなどによって、今日ではその全景をほぼ失ってしまっています。

ただ、ハウジング建設が始まる前まではどうにかその姿が残っており、石積みや城門、拝所などグスク自体の記憶あるご存命の方もいらっしゃったり、地域の最も大切な場所として語り継がれていたといいます。勝手に木や草を切ったりしてもいけなかったとも聞いています。

そんな地域のよりどころである「喜友名グスク」の地から、1955年、米軍のハウジング建設を行うため域内の香炉などを撤去するよう通達が出されました。

喜友名区では、香炉だけでも守り抜かなければという決断に至り、パイプライン沿いにお宮を建てて、グスク内に安置されていたいくつもの香炉をそちらに移しました。

それが現在皆さんが目にすることのできる、「喜友名グスク香炉群」です。

そして地域の方々の長年の熱意により、令和6年8月22日に「宜野湾市登録文化財」としての登録に至りました。

お宮内では現在16基の香炉が確認できます。

今後、米軍跡地である西普天間住宅地区の街づくりにあたって、なるべくこれらの香炉群を元の場所に還したいという計画も上がっています。

このように、喜友名区の歴史と生活と想いの詰まった香炉群、ぜひ見学してみてくださいね♪

3月3日 【ひなまつりなので、文化財にもおめかしを😊!?】

気付いたら、はや年度末、宜野湾並松、トミーとマツ😂🤙

今日なんて、3月3日「上巳の節句」・「桃の節句」で「ひなまつり」やさに~🫠

まぁ、ウチナー行事は旧暦にも重きを置くということで😅

そのあたりのサングヮチャー、浜下りのことなどは旧暦に沿って紹介しましょうね♪

と、今日は西普天間住宅地区現場にて、「歴史の道」報告書に掲載する写真を撮るため、なるべく遺構が見やすい写真を撮るため、下作業を行って写真の撮影をしてきました📸

いかがでしょう😁

綺麗な石積みがハッキリと現れましたね♪ 馬子にも衣裳ならぬ岩から微笑😆

この石積みは、戦前までに積まれたものと考えて間違いないでしょう。

いつ頃まで遡れるのかはまだはっきりとは分かっていませんが、

かつてはこの石積みの上に小道が通り、人々の生活において喜友名と伊佐~伊佐浜との往来を多いに助けていたと考えられます🫡(右に下っていくと伊佐方面、左に上っていくと喜友名方面)

また、石積みの下に見える水場はかつての水路跡だと考えられます。

以前古老からの聞き取り調査によって得られた、道の側には水路が通っていたとの証言とも合致します♪

喜友名には今でも多くの湧き水があり、古より水路の張り巡らされる水の豊かな場所だったんだろうというイメージが容易に浮かび上がりますね😁

このような、先人たちの息吹を感じらる文化財をより多く残し、癒しと学びの溢れる空間づくりを目指してまいりま~す😄♪