3.嘉数高地

更新日:2021年04月02日

嘉数高地

当地は、1945年4月6日頃から2週間余りにわたって激戦が繰り広げられました。
日本軍が爆雷を背負って戦車に体当たりをするという肉弾戦法により、米軍は大きな被害を受けました。日米両軍の兵士に加え、嘉数区の住民のおよそ半分(53%)が戦闘に巻き込まれて命を落としています。
今は「嘉数高台公園」として市民の憩いの場となっていますが、園内には今もなおトーチカや陣地壕が残っています。この場所で悲しい歴史があったことを忘れてはいけません。

 

 

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                                                          公園内のトーチカ(南側)

 

トーチカとは、大砲や機関銃などを置くための場所を、分厚いコンクリートでおおった陣地のことです。様々な形のものがありますが、このトーチカは3~4メートル四方、高さ1.3メートルで、おおっているコンクリートの厚さは約70センチにもなります。宜野湾ではここ嘉数高台にしか残っていません。
 トーチカには北側に向けて2箇所、南側に向けて1箇所の開口部があります。
 米軍は北側から攻めてきたことから、北側の開口部は銃を出すための穴ではなかったかと考えられています。2つの開口部はそれぞれ異なる角度を向き、多角的な攻撃が可能となっていたようです。
 またトーチカ北側は、南側に比べ、壁が激しくえぐられ、中に埋められた鉄筋が飛び出しています。これは米軍の攻撃を受けたためだと思われます。
 南側の開口部は兵士が出入りするためのものであったようです。

 

 

 

 

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                                          公園内の陣地壕(※壕内には入れません)
 

 陣地壕とは、日本軍が陣地を構えるために掘った、軍専用の人工壕です。
 日本軍はこのような壕を嘉数高地の斜面に沿っていくつも掘っていたようで、かなり大規模な陣地を作っていたようです。しかし現在では、その跡はほとんど残っていません。
 このような陣地を作るために、嘉数をはじめとして、多くの集落から人々がかりだされました。話によると、朝は8時から午後は5時頃まで作業をし、それ以外の日に農業をするといったような生活だったようです。また男性は徴兵されていたことから、老人や女性なども作業に行っていたようです。
 嘉数の壕の中には、頭に石を乗せて二列で歩けるくらい広く、走れるくらいの長さのものもあったようです。またそのような壕は、周囲の壁や屋根に松を切った原木を並べ、補強していたようです。

 

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