今日の文化課 2026年1月
1月29日 【ついに大物釣りあげたり!先人たちの凄さを実感!】
「西普天間住宅地区・喜友名石切場跡発見!」シリーズのパート3か4くらいになりますが😅
先日、大きな進捗がありましたので速報でお伝えします🫡
西普天間住宅地区開発地で見つかった古い石切場の、作業途中のまま埋められてしまったであろう岩を当時の手法で切り出すことに成功した!というところまではお伝えしましたね♪(今月初旬に書いてますので、このページを下へ下へスクロールしていくとありますよ😄)
切り出したのはいいものの、このスーパーヘビー級な石をどうやって運び出すか!?
今月中に運び出さないと、開発地の工期のため永遠に地中に埋まってしまうことになると😅
ここも当時のやり方で、人力で石を吊って運び出す??
一体何人の力が必要なんだろう🤔 この四方八方工事真っ最中の現場環境で、人力で運び出すことは現実的なのか😅
と試行錯誤していたところ、
なんと思いもよらぬスーパー助っ人マン🦸登場!
西普天間開発の作業現場で日々お付き合い&大活躍してくれている「三興コンサルタント」さんが、岩が切り出せたお祝いとして、岩だけに~😂👍!お手伝いしましょうか!?と超絶ヘルプに入ってくれたのです😭(いえ、そんなダジャレはたぶん岩ない🤣)
そのヘルプ作業の俊敏さ、手際の良さったら!あきさまよー🥳!まさにロック!岩だけに🎸!
まずバックホーにて巨岩を窪地の中から軽々と釣り上げ、

そのまんま傾斜路をものともせずガタガタ上っていき、

ユニック車の荷台に直接搬入!

ものの数分で巨岩の運び出しが完了!
これ、、人力でやってたら、数メートル移動するのに1時間でも足りないんじゃなかろうか😅 おおよそ数十名で数日かけてというところだったのでは? 改めて人力で作業していた先人たちの「パワー💪!!by きんにくん」のモノ凄さを実感&体感いたしました😅 ほんと昔の人ってみんな力持ちだったんだはずね。
そこからいよいよ、今回のお楽しみの一つでもあった、岩の体重測定~⚖️!
これもユニック車ならではの特典ですね♪
車載のクレーンに、クレーンスケールなる小型の計量器を吊り下げ、その計量器の下に岩を吊り下げると。
そうすることで岩の重さを測ることができるんですね~😁(最大重量2.5トンまで測れるようです!)
何キロだったと思います!?
このサイズでまさかの444キログラム!!してまさかのゾロ目!!444でウッシシシてかー🤣 お岩い🎊!しつこい!

なんと関取2~3名の重さなんですよ!?
いかにギュギュっとコンパクトに詰まっているのかが分かりますよね。
そこから岩の借り置き場までユニック車にて移送。
アップダウンを繰り返しながら、約数百メートル先の工事の邪魔にならない場所に仮置きしてきました🫡
やっぱり人力だったら諦めパータンだったやっさ😅

ということで!長編シリーズでお届けしてまいりました「喜友名石切場跡大岩切り出し大作戦」は一旦ここで中締めとなりまして、
今後どの場所でどう活用していくかが決まり次第、また再開をしていきたいと思います😁
お楽しみに~♪
1月28日 【令和8年度会計年度任用職員の募集について(発掘調査補助員、発掘作業員)】
みなさん、こんにちは!
今日はいつもと中の人が違いますので、雰囲気が違うかと思います。
小粋なおやじギャグは飛び出してきませんので、悪しからず・・・。
文化課では令和8年度より一緒に働いてくださる会計年度任用職員(発掘調査補助員・発掘作業員)を募集しています!


詳しくは文化課ホームページに掲載されている『令和8年度【文化課】会計年度任用職員の募集について』をご覧ください。
ここでは、どういう仕事をするのか軽くご紹介しようと思います。
一言でいえばそう、「発掘調査」です!
かな~りおおざっぱに言えば、
土を掘る→記録する→出てきた物・記録を整理する
そんな仕事です。
ここである日の「試掘調査」の様子を見てみましょう。
「試掘調査」とは、開発の前に、土に埋まっている遺跡などが残っているかどうかを確認するために試しに掘ってみる調査です。
重機を使うこともありますが、この日は手掘りでした。

ツルハシをふるう作業員
※彼は特殊な訓練を受けています。ツルハシはふるえなくても大丈夫です。私は彼のことをミニミニ重機と呼んでいます。
ツルハシを見ると、友達に「実物のツルハシ触ったことない」と言われ、職業ギャップを感じたことを思い出します。
土を掘り終わったら記録作業を行います。
写真を撮ったり、土を観察したり、測量をしたり、図面を書いたり・・・。
こういった記録作業は考古学を学んだり、経験がある方でないと難しい作業もありますので、職員や発掘調査補助員が行います。
記録作業が終わったら掘った穴を埋め戻します。

私「こういう穴掘って埋めるだけの拷問ってなかったっけ・・・?」
職員A「軍隊の訓練にあったような気がします。」
そんな会話が繰り広げられることもあるとかないとか。
現場での作業はこれで終了です。
現場から戻ってきたら、出てきたものを洗ったり、記録を整理したり・・・。


あくまで一例ですが、こんな感じの作業をしてます。
他では経験できない作業がたくさんある仕事です。
ぜひ、一緒に働いてみませんか?
ご応募お待ちしております!
1月26日 【歩き歩いて15000歩!歴史の道ウォーキング無事終了!】
歩きましたよ15000歩!約4時間にわたる歴史ウォーキング!
去った24日土曜日、令和7年度の「宜野湾 歴史の道文化財教室」最後の講座となる「歴史の道 現地見学会」を終えまして、今年度の全日程を無事終了することができました😆
先週頭あたりから一気に気温が下がり、週中頃には雨もふりだし、見学会当日の天候がとても気になるところではありましたが、
朝からまさかまさかのピーカンで🌞
途中半袖でも気持ち良いくらいのベストコンディションとなりました♪

と、実は今回の見学会にはちょっとしたサプライズというか、当日になって参加者へ伝えられた提案がありまして😁
課内でいろいろ事前に話し合ったところ、せっかく嘉数から当山の石畳道、当山橋まで見学に行くのなら、浦添グスクを超えて安波茶橋まで観に行くのはどうか?(歩いてプラス約15分)
逆に当山まで行ってなぜ安波茶橋まで行かない!?という声が出るのではないかとも😅
確かに、自分が参加者だったとしても、そこまで来てるなら歴史の道関連である安波茶橋まで行ってもいいのでは?と思ってしまうはず😅
ただ、嘉数から当山まででも結構な距離&勾配。しかもそこから安波茶までとなると実は起伏がモンスター🤣 途中離脱者が出てしまうのではないか?という懸念も。
そこで、急遽参加パターンを2パターン用意して、当山までで終了するコースと、体力と時間に余裕がある方は安波茶橋折り返しコース約8キロ!
このどちらかを受付時に選んでもらい、希望者は安波茶橋まで行くことにしたのです🫡
すると参加者の2/3が安波茶コースを選択!
平均年齢はゆうに60歳を超えていたと思いますが、みなさんゴイスー😆
なにかあってはいけないと、結構コースのハードさは強調してお伝えしたんですよ!
途中でリタイヤ出てもいいように伴走車を付けて見学会いざスタート!
まずは嘉数高台公園の展望台に上って、普天間飛行場の中に埋もれている「普天間参詣道」についての説明。

展望台に上るだけでもすでになかなかの体力消耗😅
そこから浦添方面に向けて古道跡を辿ります。
途中嘉数のアガリガーに寄って、集落と道と湧水の関係についての学び。

嘉数の「テラガマ」にて、普天満宮と首里とを結ぶ伝承についてのお話など。

その後バイパスを横断していよいよ浦添間切に足を踏み入れます。
そこから当山の石畳道までは住宅街ながら昔の雰囲気が結構残っていて、かつて人々はこの道を行き来していたんだな~と想いを馳せることができます。
そしていよいよ当山の石畳道♪
こちらも「普天満参詣道」の一部ですね😁

浦添大公園の敷地内になっているので、周りには住宅もなく雰囲気バッチリ!
そして牧港川に架かる当山橋を渡ります♪

橋を渡ると「ウマドゥーケーラシ(馬が転ぶほどの坂道)」との異名を持つほど強烈な勾配の石畳坂道が現れ、それを上りきって当山コースは終了です!
ここで数十分の休憩を挟んで、当山終了コースは職員の先導で嘉数まで戻ります。
そして安波茶コースはさらなる歴史ウォーキングへおかわり突入!
浦添市仲間までの長い坂道を上り切り、安波茶交差点を渡って浦添市側の「歴史の道」を歩く。
ようやくたどり着いた「安波茶橋」の絶景と小湾川を流れる水の癒し音が、それまでの疲れを一気に吹き飛ばしてくれます😆
みなさんの歩き切った~!という顔がなんとも清々しい♪
こちらも嬉しくなります😄

今回の見学はこちらまでとなりますが、王府時代はこの道を通って首里から浦添までを行き来をしていました。1597年に尚寧王が道を整備したとの記録が、グスク内に建つ「浦添城の前の碑」に刻まれています😁(現在建っている碑はレプリカです)

その石碑も見学して、浦添グスクを横断して、いざ折り返し歩きスタート!
約30~40分かけて嘉数高台まで歩いて戻り💪
歩数15000歩超え!4時間にもわたる現地見学会を無事終えることができました😁
参加された皆さん、翌日は大丈夫でしたでしょうか😅
本当にお疲れ様でした&ご参加ありがとうございました♪
次年度も引き続きいろいろ企画していきますので、楽しみにお待ちくださ~い🫡
1月22日 【文化課探検隊!我如古を探検隊!】
また少し世代が分かってしまうタイトルで始まりましたが😅
先日、急に冷え込んだ上にあいにくの小雨の降る天気ながら、
以前よりのびのびになっていた「我如古グスク」の調査に行ってきました🫡
「我如古グスク」とは、330号我如古交差点から南向け(那覇向け)に少し行った右手に見える現墓地丘に、かつてあったと伝わるグスクです。
所説ありますが、察度王の息子である武寧王の息子に「我如古大主」という人物がいて、彼が築城したのが「我如古グスク」であるとも伝わります。

ただ、まだ詳細なことはよく分かっておらず、長年時間をかけて調査を行っているところなのです😄
丘陵頭頂部には、「我如古大主」を祭る石碑と祠があり、古来より神聖な扱いを受けてきた「グスクヌカー」があります。

ここまでは訪れたことがある方も少なくないかと思いますが、文化課調査隊はグスク当時の面影を探して手付かずのグスク裏側へと足を踏み入れます。
しばらく歩くと目の前に現れるのは無数の崖と平場層の数々!
一歩踏み間違えると危険を伴うレベル。
専門家を交えた調査の推測によると、
この無数に張り巡らされた崖や平場(郭)は単に自然が作り出した天然の要塞とは考えにくい。かつて敵の進入を防ぐために敢えて造られた人口の崖と平場の形状とも考えられる。
とのことなんです😁
その崖下を横目にさらに奥へと進むと、これまた明らかに人工的に積み上げられた石灰岩の石積みが何ヵ所も現れる!


ただ、その石積み群が伝承で伝わるグスク時代のものなのか、はたまたいつの時代のものなのかがまだよく分からない。
というのも、我如古を含む宜野湾は、沖縄戦時に甚大な被害を受けた場所の一つです。すぐお隣の嘉数高台も、沖縄戦を代表するほど激戦地となった場所として知られていますよね。
その沖縄地上戦に備えて、日本軍は沖縄各地に無数の陣地壕を構えました。その際に陣地壕や平場、山道の補強として積み上げられた石積みや平場である可能性も低くはない。もしくは戦前戦後に農地として使われていく上で積まれた可能性も否定はできない、という見立でもあるわけなのです。
現に、こちらの我如古グスクにも戦時中の陣地壕がいくつも残っています。


一方、丘陵の麓には比屋良川が流れ、グスクとしての立地条件もバッチリ!

また川下流である嘉数には、同じく未だ謎の多い「小禄墓」もありますね😁 我如古グスクとの関連性があったりもするのか!?
今後さらなる調査を進めて、その存在が明らかになる日が近いかも!?
調査進捗をお楽しみに~♪
1月16日 【市報ぎのわん1月号発行!文化課ネタ掲載してます♪】
令和8年、初の市報「市報ぎのわん1月号」が発行されました~😄
今月号には、文化課のコラムも掲載されていますよ♪
コラムネタは、伊佐と大山の境あたりにある巨大湧水「オーグムヤーガーラ」についてです😁
以前こちらのHP「今日の文化課(2024年12月11日掲載)」でも紹介していますが、より多くの方々にも知ってもらいたい「宜野湾の誇り」と言ってもいいくらいだと思うので、市報でもより詳しく紹介させてもらいました🫡
また、同ページ下半分は博物館情報!
「宜野湾の”字”展~じのーんどぅむら~」の企画展、市民講座の紹介をしています😄
宜野湾在住の方であれば市報がご自宅に届くと思いますので、ぜひ読んでみてくださいね♪
宜野湾市役所や博物館、図書館などでもピックアップできますし、
宜野湾市HPにて電子版を読むことも可能です💻
ついでにコラム画像もアップしておきまーす😁
それではジノワンダフルな週末を~♪


1月15日 【ついにやりました!先人たちのスゴさを実体験!】
ついに抜けました~!
先日からお伝えしている喜友名石切場の大石を、先人たちと同じ工法、手作業のみで切り出しました~!
まさに、童話にある「おおきな部下」
ちがう!「おおきなかぶ」さながらの大協力作業でしたよ🤣
うんとこしょ!どっこいしょーいち!と🪨 人数を増やしながら力を合わせてね💪!
前回お伝えした時の状態がこんな感じでした。
その頃は、ホントにこの岩を切り出すことができるのかいな😅 というのが皆の本心でした😂
それでもタガネを差し込む穴を増やし、代わる代わるにトンカントンカン🔨(続けること1週間以上)

するとどうでしょう!?
ついに石にピキっ!と一直線のヒビが入り、タガネを叩く音にも変化がでて、とうとうパカっ!と岩盤から切り離された瞬間には、みなオォー!!とどよめきが起きました😲
でも実はそこからも大変😅
おおよそ数百キロある大石を(サイズ的には400キロオーバーか!?)、いびつに窪んだスペースからどうやって抜き出すか🪨
とりあえずは立てかけてみよう!と、てこの原理で立たせるまではいけました。

しかし持ち上げて抜き出すことは不可能と判断。途中で落下して足でも挟もうもんなら😅。。

考えた結果、ロープを使って引きずり出そう!との案に至り、石の半分側にロープを通し、まずは頭半分を地表へ引っ張り出す。そこから一気に引きずり組と押し出し組の連携作業で、見事に大石を地上へと引っ張り出しました~!「ハーイヤ!ハーイヤ!」大綱引き文化の賜ですね😂

抜き出した跡も綺麗ですよね♪
石の長さは約2mほどありましたよ!おおものです😁
当時、一体何の用途として切り出されようとしていたのでしょうか。
そんなことを考えるだけでもロマンを感じますよね♪

と、実は今後この石をどう活用できるのかはこれからの検討になるのですが😅
まさにこの石を切り出した西普天間住宅地区にて、公園整備に合わせて何かしらのオブジェとしてだったり、かつてこの地にあった石切場から実際に昔の工法で切り出した石ということで展示説明できたりしたらいいなと思っています😁
いつぞやこの石を目にすることがありましたら、宜野湾の文化課がなにやらやってたあの石か~🪨と思い出してもらえると嬉しいです😆
あ~腰やむん🤣(痛い)
1月13日 【イガルー最終回も学びの多い講座となりました!」
去った10日土曜日、ついに令和7年度の「イガルー・シマ文化財教室」の全日程が無事終了いたしましたー!
本年度もたくさんの方々に受講して頂き、まことにありがとうございました!

早速令和8年度版に向けて動き出しますよ🫡 ぜひ来年度も、いや来年度こそは!の方のご参加もお待ちしておりまーす😄
さて、イガルー・シマ文化財教室「伊佐編」の最終回のテーマは、
【伊佐浜「新造佐阿天橋碑」について】と題し、
琉球大学の麻生伸一先生に、新造佐阿天橋碑に書かれた碑文の内容はもちろんのこと、その特徴や背景、裏事情、漢文の読み方などについても教えてもらいました♪
そのうちいくつかをこちらでも共有してみようと思います😄
碑文のおおまかな内容は以前にも取り上げているので今回は割愛させてもらって、
佐阿天橋碑の特徴としては、
・石材がニービヌフニ(細粒砂岩)であること。
・碑文の上部に「日輪紋=国王」と「雲紋=吉祥」が描かれていること。これは近世琉球(薩摩侵攻以降~琉球処分まで)に多く見られるデザイン。それ以前の古琉球時代には上記二つに加え「鳳凰紋」が日輪の両サイドに描かれることが多い。(「日輪」が「国王」を表すのに対し「鳳凰」が「聞得大君」を表しているとも考えられる。なぜ近世以降「鳳凰」が消えていくのか?ここにも時代背景が垣間見えますね🤨)
などがあります。
それから新造佐阿天橋碑文は全て漢字の「漢文」で書かれており、漢文の興味深い特徴を碑文の中に見ることができます。
漢文では対象とする言葉に敬意を表す場合、文面の途中であっても改行し(平出)、さらに改行後一文字、二文字、三文字とその敬意の度合いによって文字頭を高くして書くという決まりがあります。これを擡頭(たいとう)と言います。他にも対象語の直前に一文字空ける闕字があります。
佐阿天橋碑文では、最後の(左から)2行目と4行目が二文字上がって書かれていますよね。
左から四行目には「恩准」とあり、「国王が願いを聞き届けること」の意で国王への敬意を示し二文字上げとなり、左から2行目には「聖主」とあり、こちらも「国王」を意味する言葉であるので二文字上げとなっているわけなのです🧐
また、碑文の内容はそのコピーとして公文書などの紙面にも残されるのが常。しかし、示す対象が同じであっても紙面と碑文で使う言葉が違っていたり、擡頭の位置が違ったりすることがあり、国内向けと国外向けで言葉や文面を使い分けていたことが分かる。
さらには、新造佐阿天橋碑の碑文には書かれていない事実として、琉球史書「球陽」から佐阿天橋碑に関する頁を引用すると、佐阿天橋を橋梁するにあたり実は公的予算が相当に足らず、首里・那覇・泊の町百姓から大金を寄付してもらい完成に至ったと書かれているのです。彼らはもちろん善意のみで献金したわけではなく、「新家譜○○築登之親雲上」と書かれているように、寄付の見返りとして「士族」の身分を与えられているのです😁 こういうパターンは決して少なくはなく、士族身分を買うという意味で「コーイザムレー」などとも呼ばれていました。
上記の献金内容はもちろん碑文には一切書かれていません。碑文には「偉大なる国王の計らいで」という国王顕彰が大々的に刻まれているけれども、実はこういう裏事情もあったということもまた事実なわけです😅
長々と真面目に書き連ねましたが、我々もとても勉強になりました♪
麻生先生、改めてありがとうございました!
このような琉球~沖縄歴史文化を学びに学べるイガルー・シマ文化財教室、次年度のご参加お待ちしておりま~す😄
1月9日 【伊佐区の歴史名所 伊佐浜「新造佐阿天橋碑」を学ぶ】
さぁいよいよ明日は、令和7年度最後のイガルー・シマ文化財教室となります!
本年度は、全6回にわたって「伊佐区」について学んできました😄
そのうちの2回は伊佐区まち歩き!暑い中みなさん楽しく伊佐の文化財を巡りました♪
そしてそのまち歩きでも訪れた、【伊佐浜「新造佐阿天橋碑」】について明日はたっぷり勉強します😁

碑文には、この石碑が1820年に建立されたことが記されています。(オリジナルの碑は博物館にて保管)
さらに「宜野湾 歴史の道」を学ぶ上で、かつての正路が西普天間住宅地内あったことを立証する上で、極めて重要な内容が刻まれているのです!
とくとご覧ください!

って、読めるかひゃー🤣
むる漢字あらに!
そうなんです、碑文は全て漢文で書かれているのです😅
なので、読める漢字の羅列からなんとなーく雰囲気だけは感じ取れるけど、
・・・いみくじピーマン🫑🤯
(実はこの「いみくじピーマン」という言葉も、もともとは碑文・ヒムンになんて書いてあるか分からん、ということから派生した沖縄言葉なんですよ😆 その話はまたいつか)
明日の講義では、この漢文の内容を読み解きながら、なぜ碑を建てたのか、その背景にはどのような事情があったのか、当時の様子を窺いながら学んでいきますよ♪
また、沖縄には今でもいろんな場所に石碑が建っていますが、時代とともに碑のデザインが変わったり、文字が漢文だったり仮名文字だったりもします。それはなぜなのか!? 碑文の中で一文字、二文字上げて書く箇所、逆に一文字空ける箇所があったりするのはなぜなのか?
今回それらを学ぶことで、これから出会う碑文への見方が大きく変わっていくと思いますよ♪
イガルー・シマ文化財教室は基本、当日参加も受け付けておりまーす🫡
本年度最後の講座にはなりますが、気になる方はぜひご参加ください♪
1月10日(土曜日) 伊佐区公民館にて午前10時より開催です!
お待ちしておりまーす!
1月8日 【ベテランの知恵!作業用具が無ければ造る!】
本日は、シルバーさんたちへの新年の挨拶も兼ねて、清掃作業を行っている大謝名メーヌカーへ行ってきました。
今日もプロフェッショナルな作業をなされていて、感謝感謝です😄

前回のメーヌカーパトロールの際に、石垣から民家に伸びるツタが目立ってきたので、こちらをどうにか撤去できないですかねーと相談していたところ、
今日の作業後にはこんなに綺麗サッパリ!
写真ではよく分かりにくいのですが、このツタまでの高さは樋上からでも2.5~3mくらいあるんです📏 泉の樋部分も含めると4mくらいになるかも😵💫
なので、もちろん出来る範囲で構いませんので、無理はなさらないでくださいね。
と伝えていたんです。
しかし現場に着いてみるとアラ綺麗!
どうやって処理したんですか!?
と聞いてみたら、これがすごい!
3mほどのパイプの先に金属製のヘラを括り付けて、これで下からゴシゴシとツタを剥いでいったというのです😃
さすがベテラン!その発想が出てくるかー😆
現場の困った状況を見て、これまでの経験値からアイデアの点と点とが結び付き、新しい器具を生み出す😁!
無ければ造る!
いや~感銘を受けました!
ということでシルバーのみなさん、今年も一年よろしくお願いいたします😄
ちなみに大謝名メーヌカーの見どころは、泉はもちろんのことですが、泉まで下りていくカービラ石畳道も雰囲気バッチリなんですよ♪

ぜひ訪れてみてくださいね😄
1月7日 【除夜の鐘ならぬ、岩をつく宜野湾市文化課隊】
みなさん、年越しの際に除夜の鐘は撞かれましたか~🔔
所説あるようですが、108つあるといわれる人間の煩悩を御払いする意味を込めて108回鐘をつくようですね😁
108とは多いのか少ないのか😅 一日一回迷いや煩わしさを感じたら、、一年で365回ですよ😆! HYの366日を流しつつ鐘をゴンゴンついて身を清めたいですね。こわい~しくら~い😂 いや、それが人間ですもの!
と、そうではなくて、
仕事始めの月曜日から、我々は「除夜の鐘」ならぬ、「ジノンの岩」を108回以上突いています🤣 下手したら1000回以上突いてきたかもしれません! もう煩悩どころか握力が消えて無くなりました🤣
その場に流れたBGMは、「ツイてるね~ノッてるね~♪ by みぽりん」 それも~こわ~い😂
新年早々すみません🙇🏻
いえ、ジノンの岩を突いたのは本当なんです!
おそらく、ちょうど一年前に~、トラブリュー、、
いや、もう歌わん!
ちょうど一年前ほどにも記事を上げたと思いますが、
西普天間住宅地区内にて、戦前に使われていたであろう「石切場」が発掘されました。

もう見るからに明らかに石切場なわけなんですが、なんとも興味深いことに、石切りの作業途中の岩が見つかったのです!

岩盤に穴を空けて、下部と切り離そうとしている姿が分かりますよね😃
すごくないですか!? こういう風にして石を切り取り、それを柱だったり壁だったりヒンプンだったりにして使用していたと言われています。
切り取る作業はもちろんのこと、それをいくつも運ぶともなると、、想像を絶する労働ですよね😅
それを身をもって、当時の切り出し方法で体験中というわけなのです!
まだ切り取れていませんが、切り取ることができたらまたアップしますね😁

石切場というと、読谷や浦添港川などが有名ですが、どちらも海の中から切り取っています。
そこにおいてこういう内陸部の石切場というのはなかなか珍しく、石切の歴史を知る上で貴重な情報源となるようです。
ただ、こちらの喜友名の石切場は跡地開発によって埋められてしまうことが決まっていますが、すぐ近くの新城の丘上で発掘された石切場はしっかり残していく方向なので、そちらが公開された際にはぜひ見学に訪れてくださいね♪

1月6日 【今年は「丙午」!エネルギッシュにまいりましょう!】
新年、明けましておめでとうございます!
昨日よりハチウクシー(仕事始め)となりました、宜野湾市文化課より新年のご挨拶を申し上げます😄
旧年中は大変お世話になりました。
本年もますますのご支援、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします🙇🏻
今年は「丙午(ひのえうま)」の年、ものすごいエネルギーにみなぎる一年になるとも言われていますね💪

(↑普天満宮では、毎年恒例となっている普天間高校美術部による巨大絵「馬」が描かれています😁)
上記の「丙午」のように漢字二文字で年を割り当てる表記を「六十干支」といい、「十干」と「十二支」を掛け合わせた60の干支があり、60年に一度のサイクルで一周りします。
なので一つ前の「丙午」は60年前の1966年。
長くなるので詳しいことは割愛しますが、
「丙」というのは陰陽五行(古代中国の思想)に当てはめると「火の兄」に当たり「ひのえ」、
「午」は皆さんご存じ十二支の「ご・うま」ですが、こちらも陰陽五行でいえば「火」になるんですね。
なので、「丙午」は「陽の火x火」となり、そこから火のようにエネルギーに満ち溢れる年になる、と言われているようです。加えて「馬」は「馬力」という言葉にも使われるほど走力とパワーを表現する動物ですからね。
また、とくに「丙午」年には昔から言い伝わる伝承があり、「火x火」だけに火事が多い年と言われたり、あまりに情熱に燃えた女性の話(八百屋お七)があったりと、それこそエネルギッシュな年になると伝わるようです😅
興味ある方は調べてみてくださいね♪
ご自身の六十干支(生まれ年の性格)を調べてみるのも面白いですよ♪
それから身近なところだと、宜野湾市の市指定有形文化財〔彫刻〕に登録されている「小禄墓石彫香炉」には「嘉慶十一年丙寅年」という寄進年が刻まれていたり、お隣の浦添ようどれで発掘された高麗瓦には「癸酉」と刻まれていることから、浦添グスクの築城年代が1273年なのか、1333年なのか、はたまた1213年なのかという議論が生まれるわけなんですね😁
まさに浦添グスクの遺したダイイングメッセージとでも言いましょうか🫢
歴史ロマン溢れまくりですね♪
今でこそ沖縄で馬を目にすることは少なくなりましたが、「馬」は意外と琉球国時代から人々の生活に関係性が強く、かつては明への朝貢物として欠かせないものであったし、農耕作業の強力なサポーターだったこと、馬を調教したり琉球競馬(ンマハラシー)が行われる「馬場」が各地にあったこと、ジュリ馬祭りでも馬がフィーチャーされますよね🐎
ということで、60年に一度の「丙午」!
エネルギッシュにまいりましょう😆





















更新日:2026年01月29日